2023
03.20

強い制度志向と倫理のアウトソーシング


自動動運転下で起こった事故に対する責任の所在はどこにあるのか?

この問いを検討する会議に倫理学者として参加した玉手慎太郎は次のように論じている*1。

 

自動車保険制度、製造物責任などから検討する議論があるが、そもそも自分の乗った自動運転のクルマが人をはねたとき、後は保険会社と話してくれないかと述べるのは倫理的におかしいのではないか。それらは乗り手が自動運転において事故を避けよう気をつけようという意識を持つことないため、乗り手の他者危害性への意識を希薄にしてしまうのではないかと指摘する。

そこで玉手は2つの問題点を提示する。

 

1)強い制度志向の態度

倫理的な検討の対象が「個人(の行動や考え方)」ではなく「制度(の設計とその内容)」になっていないか?

 

本来人間にとっての善を研究し、行為や人格の善さと悪さについて論じることが倫理学だとするならば、これは倫理学の機能不全を意味する。

例えば女性差別や環境問題を構造的な問題と位置づけ、それらは個々人の倫理ではなく制度の変更が必要であるとなってしまう。

もちろん対面する問題が構造的であるとするなら制度的変革によって問題解決へ繋げられるという説得的な理由もある。また現代はそのような時代であるとの見方もできる。

 

2)倫理のアウトソーシング

個人に倫理的な行動や態度を要求することなしに、端的に望ましい帰結が生み出されるように制度を設計すればそれでよいという考え方になっていないか?

 

そもそも人間が理性的に考え行動する能力には限界がある。その事実から個々の倫理に訴えるのは不毛であり倫理のアウトソーシングは問題解決としてありうる手段かもしれない。

しかし、これは統治者目線で語られていること、他者との直接の人間関係が抜け落ちていることが気になる。

 

善さの実現がシステムの問題となってしまい、善をめぐる問いに個人が真剣に向き合う契機が損なわれてしまうのだ。これでは統治のための手段としての倫理学になってしまう。

個人の生き方は、もはや大きな問題ではないといってしまって本当によいのか? 

以上が玉手の指摘である。

 

 

ダイバーシティやコンプライアンス、SDGsなど・・・

私たちが仕事をする上で「そういう制度だから・・・」「ルールなので・・・」と言ってしまう場面が確かに存在する。

私たちは「制度」や「倫理」についてもっと知る必要があるのではないだろうか。

 

 

<引用>

玉手慎太郎「強い制度志向と倫理のアウトソーシング」『現代思想』2023年1月号Voi.1 51-1特集「知のフロンティア」

 

社会

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